I-15/I-16シリーズの大成功で今や“King of Fighters”の称号を勝ち得たポリカルポフ先生。当時のソ連邦でそんな名声を得ることか本人のためになるかどうかは些か微妙なところですが、ともかく戦闘機に関しては押しも押されぬ重鎮になったわけで、当然、先生もI-16の後継機となる戦闘機の設計に取り掛かかることになります。1938年の3月には一次設計が終わっていたと言いますから、I-16もまだM-25V搭載機がばりばり生産されていた頃で、相当に手回し良くやっていたと言って良いんではないでしょうか。しかし、エンジンについては狙っていたツマンスキーM-88が間に合いそうになかったり、ならばと選んだナザロフM-87は推力不足で要求仕様を満たしそうにないと早くも暗雲が立ち込め始めたのでした。そもそも
幸いにして開発は続けられ、1939年4月27日(一説には19日)に初飛行した2号機は高度5,850mで540km/hという性能を叩きだし、メーデーのパレード上空を飛行したり、8月18日の空軍の日に展示飛行をおこなったりと順調にフライトを重ねますが、その2週間後の9月5日にはやはり滑油系の故障が原因で墜落。チャトの開発から係わってきたベテランパイロットのTomas P. Suziも助かりませんでした。