Polikarpov I-185/M71

1/72 Art model




<実機について>

 MiG設計チームの分離独立にI-180の失敗といいところなしのポリカルポフ先生。41年7月には住みなれた第1工場からモスクワ郊外の第51工場に移転することになってしまいます。結局のところ第1工場は

ミコヤン&グレビッチに乗っ取られた

形になったわけですが、当時の記録によると先生はまだまだ意気軒昂たるものがあったとか。第51工場を占有して小なりといえども一国一城の主であることに変わりはないし、まぁそれにこの程度の逆境ならいままでにだって(主としてツポレフ先生のせいで)経験してきたわけですし。

 そんなわけで、I-180の失敗から挽回してもう一旗揚げるべく、新型戦闘機I-185の設計は始まりました。主翼は前縁に後退角のついた割と普通のテーパー翼になり、付け根の大きなフィレットも無くなります。この辺りの空力的な処理はお馴染みTsAGIの強力な指導があった可能性もありますが、このI-180⇒I-185の平面形の変化はI-17⇒MiG-1の変化とかなり共通しており、MiG設計局の分離以前からI-17/I-180の改善方針として検討されていた可能性も大です。NKAPの差し金で勝手に分離独立したMiG設計局ですが、案外同じ第1工場にいる間は結構技術交流なんかも維持していたのかも知れません。

 問題はエンジンで、当初は新鋭18気筒のナザレフM-90が選定されますが、やっぱり色々無理をしたエンジンだったのか、1940年の5月には機体はでき上がっていたもののエンジンの出力がどうにも上がらず飛行不能。とりあえず1,200HPのM-81というエンジンを装備して何とか初飛行はしたもののやっぱりまともな飛行はできなかったんだとか。しかしそれでも何とか飛べたということはそれまでのM-90は1,200HPも出ていなかったということですなぁ。

 なんやかんやでそのM-81も41年5月には開発中止になってしまうんですが、幸い手まわしよく作っていた試作2号機が同じ41年5月に後にLa-5/7の心臓として有名になるM-82(公称1,700HP)を装備して完成。これでやっとまともな試験ができるようになります。ドイツの侵攻が同年6月であることを思えばここで丸1年を無駄にしたのはなかなか致命的な気がしますが、とはいえM-35はMiG設計局が使っているしM-105を使えばヤコブレフやラボーチキンと競合するしで、本気で諸外国の戦闘機に勝てる機体を作ろうと思ったらそんなに使えるエンジンが有ったわけではないのも確かではあります。M-88とかを引っ張ってもあまり良い結果が出たとは思えませんわなぁ。

 更に幸か不幸か今度は公称2,000馬力のM-71を装備した試作3号機が完成し、試験飛行で最高速度630km/hを初めとする素晴らしい性能を示します。そればかりかポリカルポフ先生の設計にしては珍しく「それほど熟練したパイロットでなくてもこれなら乗りこなせるんじゃないかね。」みたいな評価まで得たんだとか。M-81装備でくすぶっていた試作1号機もM-71に換装して試験は進み、42年春にはM-71を装備した機体の量産が決まり、量産用の生産標準(いわゆるetaronですな)となる機体も作られます。8月から10月まで領収試験がおこなわれ、これまた好評価だったとか。また同年12月からは4機の試作機がカリーニン正面に送られて実戦での評価をおこなっています。既にスターリングラード戦線にM-82装備のLa-5が投入されている時期なので些か出遅れた感はなくもないですが、仮にも2,000HP級の戦闘機ですからこれから戦力化しても充分戦力になると評価されていたんでしょう。

 これだけ順風満帆(といっても当初のスケジュールからは恐ろしく遅れているのですが…)に見えるI-185がなんで開発中止になってしまうのか、実のところ良く判りません。M-71が信頼性の問題から開発中止になってそれが波及した説と、43年4月に試験飛行中の機体が不時着に失敗してテストパイロットのV. ステパンコノクが殉職する事故があり、これが致命傷になったとする説があるようです。しかしM-71の不具合がどのようなものであったかも良く判りませんし、これまでのソ連邦のやり方からすると、1回の死亡事故ごときで開発を中止するとも考えにくいものがあります。敢えて想像するならば、そういった事情全ての複合、つまり、開発がずるずると長引くことで機体が次第に陳腐化しかけている上に、M-71の信頼性にも目途がつかないといった状況のところで事故まで起きてしまうといった状況全体が開発中止に繋がっていったのかと思います。

 エンジンをM-82に戻す案もあったようではありますが、既にM-82を装備したLaG-5が絶賛量産中の状況もあって実現しません。I-185にM-82が回ってこなかったことについては

毎度お馴染みヤコブレフ先生の陰謀

という説もあったりしますが、元々ソ連の航空政策として其々のエンジンを特定の機体に集中する傾向はありますし、まぁそんなものがなくてもLaG-5に半年以上出遅れたI-185にチャンスは無かったんじゃないでしょうか。I-185に続くものとしてはM-71Fを装備したI-187やM-82F装備のI-188といった計画があるようですが、主機を見れば判る通り、おそらくI-185とほぼ並行で進んでいたプロジェクトであり、M-71が開発中止になりM-82がI-185に割り当てられないことが決まった時点でこれらも自動的に中止になっている筈です。恐らくポリカルポフ先生の御病気や1の子分だったトマシェヴィッチ先生の離脱やらで、I-185終了後は実質的に設計局自体機能していなかったんじゃないでしょうか。失意のポリカルポフ先生は1年後に癌でこの世を去ります。健康状態以前に既に設計者としての限界を感じていたのか、それともお元気ならまだまだ飛行機を設計するつもりだったのか、心情的には後者であって欲しかったような気は致します。


Polikarpov I-185(M-71装備生産型)
寸法諸元9.80×8.05×2.50m(W×L×H) 全備重量2,709kg
主機Shvetsov M-71(公称1,000HP) 最大速度650km/h (6,100m)
初飛行1941.01.11(初号機/w M-81) 最大航続距離835km
武装ShVAK(20mm)機銃×3


<キットについて>

 キットは2011年発売のアートモデル社製。F8FとかBv155とかちょっと隙間狙いのキットを出してきた新興メーカーですが、キットを見る限A modelやAVIS model辺りと同系列な香りもします。そんなわけでキットの組み易さも最近のその辺りの簡易メーカー並み。エンジンだけはレジン製のやたら精密なパーツが付いてきますが、組んでしまうとあまり見えないのが残念なところ。M-71のキットは貴重なんですけどねぇ。

 1942年の量産(は結局されなかったわけですが)型を再現しているので、試作機とは機首周りがだいぶ異なります。できれば試作型とかM-90やM-82の搭載型とかにも展開してほしいところではあるんですが…



<製 作>

 そんなわけで精度はそれなりとは言え、パーツ数自体が少ないこともあって組立は割とちゃっちゃと進行します。ポリカルポフ先生の設計にしては珍しく風防が大きいので、コックピットの中は完成後も割りと良く見えます。嘘でもよいので適当にディティールを追加しておくのがお奨め。簡易にしては主翼の後縁が薄く成形されているのは有難いところですが、私の買ったキットは薄くしようとし過ぎてか後縁が若干欠けていて要らぬ苦労をする羽目になりました。

 塗装はお馴染み上面緑色、下面淡青色。この時期だと上面は黒と緑の迷彩の筈なんですが、写真を見ると迷彩は施していない模様です。緑はAMT-4という想定でクレオスのグリーンFS34102(C303)とニュートラルグレー(C13)を適当に混ぜ合わせましたが、写真だと結構暗く見えるのでもしかしたらFactory No.1 Greenと呼ばれる濃緑色かも知れません。下面はいつもの通りクレオスのライトブルー(C20)です。


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